3月9日、南大隅町にて行われた映画『きばいやんせ、私』の撮影に門人5名が参加しました。
『きばいやんせ!私』は、文化や自然に恵まれつつも過疎に悩む南大隅町を舞台に、都会から戻った主人公・貴子(夏帆さん)が地元の人々とのふれあいの中で生気を取り戻し地元を見つめなおす姿をコメディタッチで描く、武正晴監督による映画です。
門人5名は鹿児島県出身の俳優・榎木孝明さん演じる南大隅町長とともに薬丸流の早朝稽古をするシーンに出演しました。
映画公開は来年の予定です。
かねてより病気療養中でありました薬丸自顕流顕彰会理事・和田博温師範が10月7日薬石効なく永眠いたしました。
誠に痛惜に堪えません。
和田師範は10代であった昭和40年代より故奥田真夫師範ならびに薬丸康夫宗家に師事し薬丸自顕流を修めてこられました。
平成16年には薬丸自顕流顕彰会東京道場を開設。多くの門人を指導するとともに理事として会の運営にもあたるなど、薬丸自顕流の興隆についての貢献は多大なるものがあります。
薩摩を愛し、薬丸流を愛し、焼酎を愛した和田師範。その温厚にして篤実な人柄に惹かれ、また熱のこもった稽古指導に薫陶を受けた門人は少なくありません。
当会にとりましても流派にとりましても和田師範を喪ったことは惜しみて余りあります。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
8月18日、平松神社(旧心岳寺)において奉納演武を行いました。
平松神社は島津四兄弟の三男・島津金吾歳久公の御霊をお祀りする神社で、天正20年7月18日(旧暦)に自害した歳久公終焉の地に公の菩提を弔うべく建立された心岳寺が明治の廃仏毀釈を経て神社となった場所です。
武勇、知略ともに優れた歳久公は島津家中の信望を集め、兄・義久公、義弘公を扶け島津家による九州統一戦の主力として戦いましたが、豊臣秀吉による九州平定後、島津氏降伏後もひとり頑強に抵抗し続けたため兄義久公より追っ手を差し向けられ、この地にて最期を遂げました。
その後毎年の命日には藩士によって心岳寺詣でが行われ、今でも毎年8月18日には祭事が催行され、当会も奉納演武を行っています。
㋄20日土曜日、毎年恒例の靖国神社奉納演武を行いました。これは中国武術八卦掌・義誠国術館館長河野義勝先生が主催されている武道奉納演武会で、今年は10周年の節目となる催しとなりました。義誠国術館ならびに熊本・八代の兵法タイ捨流道場龍泉館の皆さんとともに気合溢れる演武を奉納し、護国の英霊のみたまをお慰め致しました。
薩摩藩主島津家の別邸として江戸時代前期に作られた・仙巌園。現在は鹿児島市内随一の観光スポットとして海外にも知られています。特に台湾からの観光客の皆さんからの人気は高く、この日は台湾で放送される旅番組の取材班が園を訪れ、ジゲン流コーナーでは台湾の人気女優さんとモーニング娘の2人が薬丸自顕流の体験稽古に挑戦しました。
この日の体験稽古では薬丸宗家自ら指導に当たりました。
【薬丸自顕流実演】
日時:土曜日(毎月3回開催。詳しくは仙巌園までお問い合わせ下さい。)
時間:12:00~15:00
料金:仙巌園入場料で体験いただけます。
11月3日、曽於市大隅町岩川八幡神社にて、宗家以下門人一同で神前奉納演武を行いました。
伝統ある「弥五郎どん祭り」の日、天気に恵まれて、神前ののち隣接する岩川小学校で行われている「武道大会」会場においても紹介演武を実施しました。例年の出場で県外から来て演武を楽しみにしていたという来場者もいらっしゃいました。
●10月25日(土)鹿児島の伝統行事である「妙円寺詣り」が挙行されました。本年度の学舎連合会総代を四方学舎がつとめました。9年ぶりであります。
薬丸自顕流顕彰会は宗家・理事長以下、本部道場、東京道場の門人一同が甲冑武者姿にて参加、行軍そして伊集院徳重神社にて御祭神島津義弘公の御霊に対し奉り祭文奏上の誉れに浴しました。
祭 文 (原文は縦書き)
時維れ平成二十六年拾月弐拾伍日、関ヶ原合戦の記念日に当り往時を偲び御祭神
島津義弘公の御神霊に鹿児島市学舎連合会総代四方学舎舎生、薬丸自顕流顕彰会東京道場師範和田博温謹みて我らが赤心を捧げ奉ります。
義弘公は天文四年伊作亀丸城に生を享け御祖父日新公、御父大中公、御兄龍伯公の教えを仰がれ、日新公の伊呂波歌、文之和尚の碩学、ザビエルの聞き学等を学び、文武兼ね備えた大器として早くから嘱目される御存在でありました。
御年十九の秋、帖佐岩剣城の戦に初陣を飾られて以来、蒲生、菱刈、木崎原等の戦を経て三州を平定さらに龍造寺、大友の諸将を降し九州の大半を制覇されました。
また、文禄慶長の役に於いては各地に勇を振るい特に泗川新寨の戦いには五千の寡兵をもって明韓連合廿十万の大軍を撃破、我方の戦死わずかに二名という大勝を得、鬼石曼子の偉名を大陸・半島の敵のみか四百余州あまねく轟かせられたのであります。
後、公は敵味方供養の塔を高野山等に建立されました。かくの如く戦時にあっては果敢なる勇将であられましたが平時は文教を奨め産を育て民生の安きを図られ「子は国の宝なり」と教えられた雄藩島津第十七代の英君であられました。
然乍維新公八十余年の御生涯、大小五十余度の合戦中最も異彩を放ったものは慶長五年秋すなわち只今より四百拾四年前の関ヶ原の戦いであります。時に公は徳川方の誘いに応じず薩摩隼人の精鋭一千を率いて小池に布陣されたのであります。
諸将の不和、小石川の裏切り等によって西軍は総崩れとなり、島津勢は敵の大軍の中に孤立したのであります。この時義弘公は後醍院宗重等の進言を容れ徳川本陣の正面突破を敢行されました。島津豊久、山田昌巌、阿多盛淳、川上四郎兵衛等の勇猛激闘、主将を先行させたのち決死の士が次々と座禅するが如くカマッテ、所持の鉄砲を轟発させ終わると最後尾につき、これを繰り返した薩摩独特のステガマリの戦法が語り草となるのもこの時であります。
烏頭坂、牧田を経て伊勢路へ進み東軍の重囲を脱したのは主従わずかに八十余名でありました。
戦運に恵まれず石田三成らへの献策も容れられなかったとはいうものの一貫して敵に背を見せざりし気迫こそ薩摩士魂そのものであります。
時に義弘公御年六十有五、転往時を追想い公の心中を偲び奉り幾多先人の苦難を思えば誠に感慨切なるものがあります。今尚事ある毎に奥歯を噛みながら「チェストー関ヶ原」とおらぶ隼人の気概は薬丸自顕流の雄叫びと共に我等の魂の中に活き続けております。
念えば古来三州の地は、すめらみくにひのもと、皇国日本発祥の聖地であり三州の民は悠久三千年の歴史に与かり島津家歴代の英主を戴き士魂を培ってきたのであります。
今や我国は虚りの平和に溺れもっぱら苟且偸安を事としていわれなき隣国輩の侮りを受けしかもなお廟堂に奉ずべき高位高官自らの恥を知らずして恬として権を振るい古来の醇風美俗は失われ殊に偏向せる報道機関や教育による年少者の道義的退廃は目を覆うばかりであります。
この時にあたり我々薩摩に生を受け三州の遺風を継いだ者が感奮興起、祖国を背い郷を興すの気概を示すは当然であります。
只今維新公の御神前に額づき薩摩士道未だ地に堕ちざるを御神霊に告げ、薩摩士魂の気魂が巨火と燃ゆる日の近きを信じ更に御遺徳を蒙り国家有為郷党振興の材たらむと誓うものであります。
義弘公の御英霊願わくば我等の赤心を御照覧御加護をたまわらん事を。
平成二拾六年拾月二拾五日
鹿児島市学舎連合会総代四方学舎舎生
薬丸自顕流顕彰会東京道場師範 和田博温
●平成23年 6月5日東郷平八郎記念日 大雨の中、激しい気迫で演武を遂行しました。
●平成23年5月21日(土曜日)、恒例となった鹿児島市立鹿児島玉龍中学校一年生全員参加の薬丸自顕流体験教室が開催されました。
玉龍中学一年生120名への「薬丸自顕流体験教室」。
郷土を知るという目的の「特別授業」の一環です。今年で6年、6回目になりました。これにより、中高一貫教育を実践する玉龍高校及び中学校の生徒全員が薬丸自顕流を実際に体験したことになりました。
今回も宗家以下本部道場、東京道場から参集した12名の門人で講師を務めました。
(稽古後の記念写真、ちぇすと!の気合いが轟きました。)
11月1日(月)午前中、鶴嶺神社の秋の大祭(新嘗祭)にて奉納演武を行いました。
写真は「抜き長棒」
直会で鶏飯と焼酎をくだされるのが恒例なのですが、これも楽しみです。